佐竹侯とハタハタの話

 秋田は今年、秋田藩の初代藩主・佐竹義宣侯の入部四百年を迎えた。
 猛将として知られた義宣は茶の湯や能を愛し、茶の湯の師匠は古田織部。大阪の陣では、防弾用の竹の束の陰で茶を点てて、陣中見舞いに訪れた織部をもてなしたという。
 清和源氏の流れをくみ、江戸三百諸侯の中でも名門中の名門といわれた佐竹氏だったが、関ヶ原の戦後、徳川家康に常陸五十四万石から秋田二十万石への国替えを命じられた。石高を半分以下に減らされた義宣は断腸の思いで多くの家臣団を整理し、秋田へと向かった。
 しかし義宣は重さ約十トンにおよぶ大手水鉢だけはなんとしても手放せず、わざわざ海路を使って秋田まで運ばせている。この手水鉢は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰り、秀吉に献上。大阪城にあったものが石田三成のはからいで佐竹氏に贈られたと言われているもの。長さ約三メートル、幅約六十四センチ、高さ約九十一センチ。この歴史のドラマを感じさせる大手水鉢は、現在、城跡の一角にある茶室・宣庵の庭にすえられている。
 大手水鉢とは逆に、義宣を慕って勝手に秋田までついて来たといわれているものもある。それは金銀銅などの鉱物資源と、秋田の県民魚ともいわれているハタハタだ。義宣が秋田に来て以来、藩内で院内銀山や阿仁銅山など全国でも有数の鉱山は発見されるし、ハタハタの漁獲量は伸び続けた。
 「常陸の金銀鉱は地下を通って、すべて秋田へ行ってしまった」「常陸の海のハタハタは佐竹氏とともに秋田に移ってしまい、常陸ではとれなくなった」と『常陸太田市史』には伝えられている。もちろん、金銀銅の産出は歴代の藩主が鉱山の開発に力を入れた結果であり、秋田でのハタハタの漁獲量の増大は漁法の進歩と流通の整備によるものである。そもそもハタハタは本州の太平洋側には生息していない魚なのだ。
 秋田県民は昔からこのハタハタが大好きで、現在では他県で捕れたものはもちろん、外国産のハタハタも秋田まで運ばれてくるほどだ。頭が大きくウロコのない魚だけに、初めて見る人にはグロテスクに感じられるようだが、秋田県民はこの魚を前にすると目を細める。
 ハタハタは普段は水深三百メートル前後に住む深海魚で、十一月下旬から十二月上旬にかけて産卵のために沿岸の浅瀬に押し寄せてくる。北西の冷たい季節風が吹き、大シケで海が荒れて水温が下がり始めると、漁師たちは網を入れ大群を待つ。
 その昔は雷が響きわたるほどの大シケ(寒冷前線の通過によるもの)が来るとハタハタが押し寄せてきたことから、魚偏に雷と描いて「魚雷」。また、普段は沿岸ではまったく見ることがない魚なのに、正月を前に「どうぞ獲って下さい」とばかりに浅瀬に押し寄せてきたことから、神様がつかわしてくれた魚ではないか?ということで、魚偏に神を加えた「魚神」という字も当てられている。
 佐竹候がやってきてからは以前にも増して大漁続き、まさに秋田の大衆魚No.1。しかも寒い時期に水揚げされるため、川舟や馬の背に乗せて遠方まで生のまま運ぶことができた。このため藩内のすみずみまで大量のハタハタがいきわたった。
 白身でクセのない魚だけに、焼く、煮る、田楽、塩漬け、こうじ漬け、干物、飯寿しなど料理や保存方法もさまざま。どこの家でも二箱三箱と買い求め、春先まで食べる魚としてさまざまな方法で漬け込み、ひたすら食べ続けた。秋田県民のDNAにはハタハタの味がすり込まれているといわれているゆえんである。
 盛漁期の昭和四十年代には一万五千トン前後の水揚げがあったものの、その後ハタハタは減少の一途をたどり、平成三年には七十トンまで激減し、一時は「幻の魚」とさえ言われるようになった。これを受けて漁業者は三年間の自主禁漁を実施。禁漁明け後は年間の漁獲量を決めて資源管理型漁業を行うなどハタハタ資源の回復に努めている。この結果、年々ハタハタの漁獲量は伸び続けている。
 佐竹候の後を追って秋田にやってきたとされる鉱業は円高と構造不況の影響でかつての元気を失っているが、ハタハタは一時の低迷を脱して回復傾向になる。入部四百年の今年、「佐竹氏とともにやってきた」といわれるハタハタは大群で押し寄せて来てくれるに違いない。


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